マーケティング・エンジニアリングとマーケティング・サイエンス、どちらも似たような意味合いを持っているように見えるが、経験知×学問知という視点から何が違うのか考えてみよう。
この10年ほどの間に、マーケティング・サイエンスの研究で非常にポピュラーになった分野にEmpirical IO (実証産業組織論)がある。
これは、マーケティング・エージェント(企業、店舗、消費者、売り手、買い手)の行動を経済理論に基づいてモデル化して、そのパラメータを実データから推定するものである。
こういうと難しく聞こえるが、回帰分析を使って広告反応関数のパラメータを実データから推定することも、古典的な一例である。
この分野が近年、特に注目を浴びている理由は、構造モデリング(Structural Modeling)と呼ばれるアプローチの出現による。
まぎらわしいのだが、これは統計手法の共分散構造分析 (Structural Equation Modeling)とは全く別物であることに注意されたい。
構造モデリングは、1995年にノーベル経済学賞を受賞したロバート・ルーカスが提唱した『それまでの伝統的なマクロ経済学における政策評価方法に対する批判』に対処すべく生まれたといっても過言ではない。
伝統的な手法では、経済主体の行動をモデル化した方程式を過去のデータにより推定して、将来取るべき政策の評価を行っていた。
しかし過去の政策変更は個々の経済主体に様々なインセンティブを発生させて、人々の期待や選好(構造)を変化させるため、将来の政策変更による行動の予測ベースとしては不適切な可能性がある。
よって、過去のデータ、特に高度に集計されたデータに基づいて推計された行動を不変なものと仮定して、政策評価を行うことはできない、というのがルーカス批判(Lucas Critique)である。
ルーカスは以下のように例えた。
『
ノックス城が過去に一度も攻め込まれなかったからといって、守衛を撤退させてもいいとは言えないだろう。
なぜなら、この城を攻めるか否かというインセンティブは、守衛の有無で異なるからだ。
』
その結果マクロ経済分析では、個々の経済主体の最適化を明示的に考慮するいわゆるミクロ的基礎を持ったモデルを用いるアプローチが主流になっていった。
実はこの『ミクロ的基礎』は、マーケティング・サイエンスで馴染みの深いアプローチである。
例えばプロモーション効果の分析において、集計されたPOSデータを使って売上げをプロモーション変数で回帰するのではなく、個人の購買履歴データから消費者行動理論に基づいたモデル(たとえば効用最大化によるブランド選択モデルなど)を推定することが多い。
この構造モデリングが新しいのは、モデルに用いられる行動理論がより精緻なことである。
構造モデリングの発展の影響から、経済学で学位を取得した研究者のマーケティング・サイエンスへの活躍や転身が近年、顕著になってきている。
次回はマーケティングにおける構造モデリングの具体例を紹介し、経験知×学問知との関係を探る。