(上)では、近年、マーケティング・サイエンスにおいて、構造モデリング(Structural Modeling)というアプローチを用いた研究が注目されていることを紹介した。
構造モデリングを説明するために、以下の2例を考えてみよう。
経済政策の例: 所得の格差を是正するため失業者に対する優遇を手厚くしたところ、かえって所得の差が拡大してしまった。
理由としては、優遇によって失業のメリットが増加して、職を得る意欲が減ってしまったことが考えられる。
ここでは、失業している人々の働く意欲を考慮に入れなければならない。
マーケティングの例: あるブランドでは、セールで値引きするたびに売上げが大幅に増えることを経験していた。
そこで恒常的な売上げ増を狙って通常価格を下げたのだが、逆に売上げが落ちてしまった。
この理由としては、次のようなストーリーが考えられる。
高価格は高品質のシグナルを発信するため、一時的な値引きはお買得感を誘発する。
しかし通常価格を低く設定した結果、高品質のイメージが消えてしまい、消費者は以前のようなお得感を感じなくなってしまった。
これらの例から分かることは、「ルール変更(所得補助や値下げ)がどのような結果をもたらすかを予測するためには、各人のインセンティブ(働く意欲や品質への欲求)を適切に考慮して、それに基づく行動の変化を予測する必要がある」ということである。
構造モデリングを一言で表すと、経済理論によるインセンティブの最適化に基づいたエージェント行動から構築されたモデルを用いた分析と言える。
それではなぜ、構造モデリングが今、注目されているのであろうか?
まず、ITの進歩により、過去にないほど大量のエージェント・レベルの非集計データが利用可能になり、よりリアルで精緻な消費者や企業の行動モデルを構築できるようになったことが挙げられる。
例えば、個人別の購買履歴を記録したID POSデータ、ウェブ閲覧データ、アンケートによって収集された選好、価値感、ライフスタイルなど、世の中はビッグデータで溢れている。
そして、これらの複雑なモデルの推定が、計算機のパワーを使ったシミュレーションによる統計手法(例えばベイズ統計)の発達によって可能になったためである。
しかし構造モデリングはパワフルであるがゆえ、マーケティング、特に実務における盲目的な導入には警鐘を鳴らしておく必要がある。
経済学では、観測される現象や行動はエージェントの最適化の結果であり、そもそも市場均衡の定義自体であるとする傾向がある。
これに対しマーケティングでは、業績向上のために企業はどう行動するべきかが関心ごとである。
つまりエージェントが最適に行動していないことが前提であり、それを正すためには何をするべきかを探求する、規範的な側面が強い。
また経営では、市場の均衡を崩すことによって、企業は競争優位を勝ち取るとも言われている。
消費者や企業は何を最適化しているのか? あるいはそもそも、最適を目標としているのか?
答えはデータに潜んでいるのかもしれない。
現場のマネジャーや経営者は潜在的に知っているのかもしれない。
これらは経験知と呼べよう。
このスタート地点が間違っていると、Garbage-in Garbage-out!
構造モデリングを使った分析は、逆に大きな間違いを起こしてしまう。
学問として成熟の兆しがあるマーケティング・サイエンスでは、近年、学問知への比重がますます高まっている。
しかし実務のマーケティングでは、経験知と学問知、どちらに傾きすぎてもいけない。
その絶妙なバランスが重要である。
実践においては、経験知をも重視する、より工学的なアプローチ、すなわちマーケティング・エンジニアリングが求められているのかもしれない。